無料ブログはココログ

2011年12月 2日 (金)

内田樹さんの講演会

 内田樹さんの講演会があった。
 11月29日火曜日午後7時から。
 会場の松山市総合コミュニティセンターに近づくと、入り口に面した道路に、「こうなん観光バス」が止まっている。神戸からツアーを組んで、聞きに来られた方が乗っていたのであろう、と思うと、ほほえみがこぼれる。内田さんの「身内の方」であろう、と察したので。

 バスの横を通り過ぎるとき、タクシーで乗り付けたスーツ姿の男性2人が下りてきた。会場の入り口付近にも「偉いさん」のような感じの男性がたむろしており、内田さんの読者層は広いんだなあ、と感じ入る。

 開演10分前、会場前には当日券を交換する人の列。約1000席の会場内は、ほぼ満席。老若男女いらしたのだけど、スーツ姿の男性が割と目に付いて、このような客層が集まることは、ほかの演者ではあるのだろうか、と疑問に思う。とらえどころがない感じ。こう感じのは私だけではないようで、知り合いの映画ファンも「どういう客層なんでしょうね」と問いかけていた。

 演題は「伊丹十三と「戦後精神」」。
 内田さんは、第3回伊丹十三賞を受賞され、その記念講演だった。

 講演に入る前に、伊丹十三記念館の宮本信子館長と、内田さんの短いトークがあった。伊丹十三がエッセイに書いたという、自動車で坂道を下りるときにはブレーキは使わずエンジンブレーキを使うものだ、という運転技術を、内田さんは実践しておられる、と宮本さんが紹介したあと、「でも、これだけは真似ないでくださいね」と伊丹さんがとっていた運転の仕方を話された。
 いわく「後進の車がスピードを出してきて、伊丹の前に割り込もうとすると、伊丹はスピードを上げ、決して割り込ませなかった」「あれは危険で怖かった」と。

 内田さんの講演は気合いが入っていた。
 伊丹十三はあれほど多面的な活躍をしたのに、まとまった論はない。伊丹十三賞の第1回の受賞者の糸井重里さんは受賞記念に、新潮社の編集者の方と対談されたが、伊丹から受けた影響を語っただけ。第2回のタモリさんは、講演自体行わなかった。
 だから、以後のスタンダードになるような伊丹十三論を語る義務が私にはある、と話を始められた。

 テーマは「ヨーロッパ退屈日記」。

 講演のためにメモを取っていたという内田さんはしかし、話し始めた時点では、話の内容はまとまっていない、と断りを入れた。講演をしている場で、論は生成していくのであろう。

 内田さんは、伊丹十三が「ヨーロッパ退屈日記」で書き落としていることを指摘し、そこから論を転がした、ように私は記憶している。そのような論の運動はアクロバティックに感じるものの、説得的に展開できれば、聞き手は感嘆の念を禁じ得ない。会場には終始、水を打ったような静かさが広がっている。マイクを手にした内田さんの体は、ゆっくりと左右に揺れている。

 講演を聴き終わると、宮本さんがはじめに紹介された伊丹さんの運転のあり方は、伊丹さんの精神にスーッと一本の筋が通っていたからだ、と受け取るのが妥当なのか、あるいは、危険性の芽を内包するような事態を避けようとしないのは武士的ではない、と受け取るのか、どちらが妥当だろうか、と考えた。

 講演が終わり、内田さんが壇上を去ると、「これにて講演会は終演です」というような内容のアナウンス。

2011年6月 8日 (水)

双方向性

 愛媛大学生協ショップに寄ったとき、教科書コーナーが設けられていたので、面白い本はないかと一通り見ると、平田オリザ「芸術立国論」(集英社新書)があった。平田さんのこの本で印象に残っているのは、芸術家の構想力には、芸術を発表する場をどう確保するかも含まれており、したがって演劇であれば、劇場にかかわりのある法律を知っておくのは当然で、行政とも対等に話せなければならない、というようなことを主張している点だった。

 平田さんのこの本が出たのは10年前の2001年。平田さんは鳩山由紀夫氏が首相だった2009年には内閣官房参与になった。その立場であるからこそ知り得る情報をことし5月17日、韓国の講演会で述べ、翌18日、「当該の事実関係について知り得る立場にない」と発言を撤回した。それは福島第一原発事故で出た放射性物質に汚染された水を東京電力が放出したのは、「アメリカの強い要請で(海に)流れた」というもの。

 平田さんは対話が重要だと主張した本を書き、演劇ワークショップでは参加者のコミュニケーションの技法の可能性を開いている。そういう平田さんでさえ、公開していいかどうかの判断を誤ってしまうほど、政府内では大っぴらに話されていた情報なのだろう。もちろん私は、アメリカからの強い要請があったのは事実だろうと感じている。平田さん発言のあとの18日、細野豪志首相補佐官が「日本側の判断で行った。米国からの要請は一切ない」と否定したのも、ますます怪しい。

 アメリカというものは、触れてはならぬ危険なもの、恐怖を呼び起こすものなのであろう。

 ところで「芸術立国論」を教科書に指定しているのは山川龍巳先生で、講義名は「芸術の世界」。講義名からは芸術の世界へ学生を誘う内容を想像するのだけれど、「芸術立国論」がテキストだということは、演劇がこれからの社会にとって必要であることや劇場法制定の必要性を主に説くのであろう。同姓同名の別人の可能性もあるが、山川先生は、たぶん、東温市にある民間劇場「坊っちゃん劇場」の支配人である。

 松山市に住んでいると、演劇をみる機会は限られる。松山市民劇場が年6回ほど東京などの劇団を呼んでいるのと、近年では年に1、2回、地元のテレビ局が東京から演劇を呼んでくるくらい。あとは坊っちゃん劇場が年間を通して一つの作品を上演している。そして地元の劇団公演が加わる。全部みたとしても20本前後ではないだろうか。

 そうなってくると、哲学者のアランではないが、見る回数をこなせないから、見る目が育たない。見る目が育っていないところで、演劇の有用性をいくら説いても、説得力を持たないと思う。

 そうしてここにきて、松山市民劇場の会員減少の危機である。愛媛新聞が6月5日(日)7面「地域解説」面で書いているが、今のあり方では存続は難しいという論調だ。

 もし休会という事態になった場合、松山市に住みながらみられるのは、地元アマチュア劇団がほとんど、ということになる。愛媛新聞社が発行しているフリーペーパー「ウイークリーえひめリック」は5月26日号で「愛媛の劇団」というタイトルのもと、1面と2面を使って松山市の7劇団を紹介している。1面に劇団イリュージョンと劇団ヴォイス、2面には劇団花火、劇団P.Sみそ汁定食、ミュージカル劇団みかん一座、劇団狩潔亭(仮)、シニア劇団くくく楽会。どういうルートを使って取材したのか分からないが、抜けている劇団もある。記事は、演劇の世界に誘う文章になっている。

 この記事を読んで、初めて演劇をみた人はどういう感想を持つだろうか。

 「演劇は見ない。劇場にも小劇場にも行かない。本も読まずに来て、みなでみる、空間をつくりあう、あの不自然さが気色わるい」と書いたのは、詩人の荒川洋治さんである。毎日新聞2011年5月29日(日)7面「今週の本棚」面で、「ストリンドベリ名作集」(白水社)を評した中で書いている。

 そういう感じ方もあるんだな、と思う。しかし荒川さんにとって映画はどうなんだろう。台本を読んでから見るのだろうか、と考えてみると、おそらく「空間をつくりあう」のが一番「気色わるい」のであろう。といっても、本を読む場合でも、文字と読み手の間には「読書空間」が成立している。映画を見る場合でも、映画の文法を知り、みないと、分からない。だから映画館の中にだって、作品と観客の間に「空間」は成立しているだろう。

 と思ったけど屁理屈かもしれない。

 舞台芸人がその日の客を読むように、舞台俳優もその日の客を読んでいる。「きょうの客はどうや」「のりが悪い」とか何とか。つまり舞台に立つ側は、一人一人の客を相手にしているのではなく、「客の塊」というか「客全員が醸し出す空気」を相手にしている。その空気にどう関係するかによって、その日の舞台の出来が違ってくるのであろう。役者の柄本明さんは、自分と客の間に演技を置く、というようなことを言っていたと思うが。そういう状態を、横から眺めれば、「空間をつくりあう」ということになる。

 つまり荒川さんは根っから演劇空間が嫌いなのだ。

 来月7月24日にテレビのアナログ放送が終わり、地上波デジタル放送が始まる。地デジの売りは、視聴者との双方向性であろう。日本でテレビ放送が始まったのが1953年だから、58年たってようやく視聴者との双方向性を当然の前提にした番組づくりが始まっていく。

 がしかし。演劇なら、舞台上の人間と観客の双方向性は初めから実現している。もちろん同じ双方向性といっても、地デジなら観客個人が特定される双方向性だから、質が違うのではあるが。それにしても、なんという回り道をしているのだろう。

2011年6月 6日 (月)

C.T.T松山vol.2

 数日前の予報では雨だったのに青空が広がっている。C.T.T松山vol.2をみるために会場のアトリエTNEに行き、開演する前、ビル北側の開け放った窓から外を見ると、市街地がわずかにある向こうには山が連なり、山のてっぺん辺りにも住宅が点々とある。道後平だろうか。

 アトリエTNEの窓から見晴るかす景色には山々の連なりがみえ、その上に広がる青空を眺めていると、晴れ晴れとしてくる。

 自然から受けるそういう恩恵とは別の何かを、芝居は確実に与えるのでなければならない。そこでは何を感じるだろうか。愚かしくも愛すべき人間の営み、端的にいって人間を感じるだろう。うまく行った場合は。

 私がみたC.T.T松山vol.2は5日午後2時からの部。3団体が出演した。見た順に書き留めておこう。

 だるまど~る「ぐルぐるグる」。
 開演時間になると、白い衣装に身を包んだ3人と、日常の服を着た女性が出てきて、小道具として使う幼児の玩具を舞台上にちりばめていく。その間に、C.T.Tの主催者あいさつがあった。そうして暗転してから始まり。
 白い3人ははじめしゃべらず、しばらく幼児のおもちゃで遊んでるだけ。台詞のない芝居かと思ったが、しゃべり始めたので安心した。遊びの動きだけでは私は何も感じなかったから。が、台詞をきくと、格言や箴言や哲学者の言葉の一節の引用がほとんど。その言葉たちは、時あるいは時間に関するもので、3人にそれぞれ、過去、現在、未来に価値を置く言葉が割り振られている。考えようによっては、過去、現在、未来の精霊が戯れているようにも見える。だから空間設定としては、現実空間ではなく、精霊達のすむ空間と私はみた。
 そこに日常の服装をした女性が迷い込む。
 この女性にとっては異次元世界との遭遇なのだけれど、その事件性は強調されない。そういうところは、たとえば中国の昔話で、桃源郷で囲碁を差している仙人のところに迷い込んだ男を、仙人はさほど気にしないのと同じようなものだ。
 日常の女性は、その世界を抜け出てもまた入ってしまう。どうも出口が入り口になっているような、つまり出口がないような空間に入ったと気付き、「ここはどこですか」と尋ねる。そこからやりとりが生じるのだけど、白服の3人はそれぞれ、過去に価値がある、現在に価値がある、未来に価値があるという主張を繰り返すだけ。繰り返しているうちに、白服はほかの白服に論破されて固まり、最後に勝ち残った白服を、日常女性が論破する。
 論破されると動きが止まる白服。それは思考の停止を表しているようで、なぜ思考が停止するのかといえば、他人の言葉でしか考えてなかったからだと私は思った。で、白服が幼児の玩具で遊び続けているのは、「他人の言葉で考えることは、児戯に等しい」という隠喩だろうか、と思った。だから最後の方で、日常女性が「それは全部他人の言葉でしょ。自分の言葉はないの」みたいな意味のことを言ったのであろうと。
 であればこの芝居は、昔の偉人の立派な言葉を集めた本が売れている現状を揶揄しているようであり、それに対置して、「自分の言葉」というものを持ってきたのであろうか。
 「時代が混乱してくると、売れるのは、実用本か哲学書ですよ」と言ったのは誰だったろうか。
 人間にとって言葉とはそもそも他人がしゃべっていたものを、覚えたものである。つまり「はじめに言葉があった」のである。そうして他人の言葉であっても咀嚼すれば自分の言葉になる。ならば、他人の言葉に自分の言葉を対置するのは、それまた違う罠にはまることではないのか。
 
 劇団花火「フラワーマン」
 舞台上には中央奥に、建設現場で使うような足場。それを2段ベッドに見立てている。それに掃除機とパソコンのキーボードと傘と傘立て。
 登場人物はすべて赤い衣装を着ている。
 両親が亡くなった飛行機事故で生き延びた妹と暮らす姉。結婚適齢期の姉に、青年実業家を紹介するおばさん。その4人の絡み合いが現実世界の出来事で、妹にだけみえる幻想世界の出来事も演じられる。
 こう書くと、暗そうな雰囲気の舞台を思い浮かべてしまうが、常に動き回っていてエネルギッシュ。また、たとえば2人の部屋を訪ねるおばさんがドアをノックするとき、おばさんが「とんとん」と擬音を台詞で言うなど、デフォルメした表現をしている。それに違和感というか嘘くささを感じないのは、無機質な空間に、赤い衣装、台詞の言葉のイメージの広がりから次の場面に展開するような話の運び方によるところが大きいと思うが、やはり何より、登場人物が速いテンポで動き回っている勢いが一番大きい。
 舞台世界でのリアルを、日常世界とは別の次元で成立させているということで、それは演出の力量であろう。
 現実世界と幻想世界との境目(場面転換)を荒い息だけでつなぐところなど、うまい。
 今回上演したのは、9月予定の本公演の短縮バージョンなので何とも言えないけれど、最後のほうの妹と姉のやりとりのところに、ストーリー的にみてつながらないと感じたところがあり、そこに違和感を感じた。

 unit out「(フ)しあわせのかたち~或イハ私タチノ夜明ケ前ノ孤独~」
 舞台下手にテーブル、中央にはローテーブルとソファ。女性の部屋。
 契約社員から正社員になった女性と、仕事に就かない男。同棲する2人の、クリスマスの夜を描く。
 舞台下手から女性が入ってきて「ただいま」。室内には誰もいない。入ってくるときの表情は少し憮然としたよう。テーブルに荷物を置き、ソファにかけ、ローテーブルに置いてある絵本「マッチ売りの少女」に気付き、手に取る。
 同棲相手の男が下手から入ってくる。「ただいま」。このときの入って来方が、ドアがあることを感じさせない速さだった。端には目もくれず、迷いなくまっすぐ突き進む。こう書くと、信念があり、よい人のような感じがするが、逆から言えば、自分や自分の考えを相対的にみることができず、他人から指摘されても直すことができない、ともなる。
 男の速さが気になったのだけど、なんで気になるのかといえば、この男は、そのあとのすべての動きにおいて動き始めるタイミングが速いと、私には見えたからだ。女が何かを言って、それを聞いて次の行動に移る。その反応がわずかに速い。1秒より少し短いくらい速い。
 女に、仕事に就く気のないことを責められたとき、男は、女には俺が必要で妹にも俺が必要で誰も困ってないのに、なんで仕事につく必要があるの?というようなことを答える。つまり男の世界には「他人」がいなくてすわわち「社会」がない。そういう世界の狭さゆえに、あらゆることがらを自分が分かるように早合点するしかできないから、反応速度が速いという役づくりなのか、それとも役者の素の動きが元々速いのか、そこが分からなかった。
 途中、女が泣くシーンがあった。そのときに「不安というか、そんなんじゃない、」と次々と言い換えていって、結局は言葉で言い得ないと結論づけるのだけど、そういうときに繰り出す単語は「愛」や「憎しみ」や「怒り」や「世界」みたいな言葉なのだけど、それをみていて私は、男との具体的な関係の危機から浮かび出た思いを、そういう言葉で考えざるを得ない不自由さを思った。だから女は泣いたり、泣き笑いをしたりするのだろうが、つまりこの芝居では、(少なくとも登場人物にとっては)言葉では言い得ない領域を示すことによって、役者の生身と細かい演技力がなければ成立しないように作っていると思ったのだった。
 だから女が泣くシーンでどのように泣くのか、笑うシーンで男と女はどのように笑うのか、男と女が諍いをするときどういう動きをするか、観客はかなり細かく厳しく見るようになるのだと思う。
 だから私は、男のテンポの速さが気になったのだ、たぶん。
 女がはじめに泣くシーンでは、男に変わってほしいがその見込みはなくだからといって関係を壊したくはなく結局この状況を受け入れざるを得ない辛さから泣くのだろうし、しかしそういう男であっても愚かしくもかわいいと感じる部分があるから2度目の泣き笑いとなるのであろう。
 はじめ泣くときには、女が抽象思考に入ったこと自体が女の感情の変化を表しており、そうして抽象思考で使う大雑把な言葉にもいらいらして泣き崩れていく、その泣き崩れていく変化を、私は泣き崩れるのが若干遅いと思ったのであるが、泣き笑いのときには、笑いが交じるのが遅いと思い、ということは、私は男は反応速度が速いと思い、女は感情の動きが遅いと思った、そういうことはかなり個人的な好みかもしれず、だとすればそういうことに正解はなく、演出がコントロールした速度だったのかもしれない。そしてその男女の速度の違いが、なぜこの男女が関係を解消しないのかの鍵なのであろう。
 最後に男女が笑うシーンは、笑うという見かけは同じでも、男と女では笑う文脈が違うし、何もかも問題が解決して心の底から男と女が解け合う笑いではない。それが分かるような笑い方が必要だと思ったが、私は男の笑いの中に含まれる影の量が多いと感じた。この登場人物の男なら、もうちょっと安堵して笑うのではないだろうか、と。
 で、この芝居の決定的な弱点は、役者の声が小さいことだと思った。台詞が要求しているのは抑えたトーンの声だが、しかし芝居である以上、観客に聞こえないといけない。

 3本の上演が終わると、合評会があった。
 上演順に観客とのやりとりをするのだけど、一本目のだるまど~るに関して、司会者が「この芝居にはなかなか意見が出なかったんですけれども」と前日のことを持ち出して紹介し「誰か口火を切って下さる方はいませんか」と問いかけた。そういう言い方をすると、余計に言い出しにくい雰囲気をつくってしまうのに。惜しい。

2011年5月16日 (月)

「正常だから鬱になる」を読んだ

 「正常だから鬱になる 弱いんじゃない、まともなんだ」という特集を組んだ季刊総合誌「SIGHT」2011春号(rockin’on)が気になっていたので、読んだ。「SIGHT」春号は、ジュンク堂書店松山店の総合雑誌コーナーではしばらくの間、通常の棚ではなく、フェア用というか特集用の棚、要はいつもより目立つところに平積みにされていたのだった。それが通常の棚に戻されたのは、「文藝春秋」6月号が大量に場所を占めたためなのだった。

 「正常だから鬱になる」というのが本当だと言うためには、「鬱にならなかったら正常ではない」のが本当でなければならない。が、すぐに分かるように、「鬱にならなかったら正常ではない」とはいえない。
 ということは、「正常だから鬱になる」というのはハッタリだ。ならばなぜそれをメインタイトルにしたのか。
 
 サブタイトルは「弱いんじゃない、まともなんだ」。こういうメッセージを出すということは、「鬱になるのは弱い人間で、(少し)おかしなところがある」と世の中に広く思われている、と、編集部が考えているからだろう。

 では、実際のところどうなのか。
 
 そこらへんを気にかけて、読んでみた。

 分かったのは、メインタイトルはおそらく、特集の巻頭インタビューに答えている精神科医の泉谷閑示さんの発言から取ったのだろうということ。

 泉谷さんのプロフィールをみると、講談社現代新書から「『普通がいい』という病」を2006年に出していて、本屋でぱらぱらとめくると、出た当時に私は読んだ本なのだった。でも結果からいうと読んでないのだった。
 読めども読めず。
 と言おうか、
 読めども身に付かず。
 と言おうか、
 悪銭身に付かず。
 と言おうか、
 良書、身に付かず。
 と言おうか、
 読書百遍、意自ずから通ず。
 が本当なら、一遍しか読んでないので、意が通じなかったのか。
 
 とにかく。

 泉谷さんは「SIGHT」のインタビューでこう言っている。

 

よくご家族が「うちの子がひきこもりになって」とか、「会社に行けなくなったんです」といってお子さんーもう20代とか30代の方だったりしますけどーを連れていらっしゃる。そこでその方のお話をじっくりきいていくと、どうも病んでいるのはご家族のほうで。周囲に対して一番真っ当に拒否反応なりレジスタンスの運動を起こしているのがご本人なんですよ。それは会社でもあり得ることで、たとえば上司が、部下をなんとかしてほしいと連れてくるんですが、よく話をきいてみると、「あなたの会社、かなりおかしいことになってますね」、みたいな(笑)。私からしてみれば、そうして行き詰まっている方たちに、素直に親近感を覚えますし、ほっとするんです。「あ、この人はまともだ」という感じがするんですよね。(18~19ページ)

 つまり、「正常だから鬱になる」とは、泉谷さんが臨床から得た実感なのだった。

 ではなぜ鬱になるのか。

 泉谷さんの仮説はこうである。

 

「頭」は理性の場であって、英語の助動詞で言うところのshouldとかmust系列の「〜すべき」「〜してはならない」といった物言いをします。そして「頭」はなんでもコントロールしたがるという特徴があります。学校や会社、社会での規範というのはこの「頭」が支配しているものなんですね。一方「心」は、want toやlikeの系列で「〜したい/〜したくない」「好き/嫌い」といった直観や情動を備えている場所です。本来、生き物として中心にあるべきなのは「心」のほうなのですが、人間は「頭」の部分ばかりがどんどん発達してしまい、生き物としてのバランスを失っている、というふうに考えられるわけです。
 たとえて言うなら「頭」支配の独裁国家が、「心」を奴隷のように扱う状態が続く。そうするとあるとき「心」がストライキを決行し、反政府運動を起こすという。もはや「心」が「頭」の強権的な指令には一切応じないという、これがうつの状態なんです。(20ページ)

 つまり、そうなった理由はどうあれ、「頭」による「心」の専制支配が、うつを生み出すと。そして「心」と「体」は一体のものだから、症状は体に表れることもある。体に表れる場合、現れる場所は、喉だったり胃だったり、ひとさまざまであろうが、表れた場所は、心=体のメッセージを読み解くための重要な手がかりになる、ということですね。

 で、「頭」が理性の場であってみれば、治療は言葉によるものとなる、すなわち泉谷さんの治療は、対話になるわけなのです。

 なぜか。
 
 「頭」の中が、「〜すべき」「〜してはならない」で充満してるからでしょう。充満している命題が妥当なものなのか吟味するには、対話が一番です。ソクラテスみたいですね。

 そして鬱になる人が増えているのであれば、学校や会社、社会には対話がない、ということになる。そこに対話があるのなら、鬱にはならなかったのだろうから。そしてもう一つ。同じことの言い換えだけれども、学校や会社、社会のあり方が変化する時期にきているのに、対応できてない、という問題が浮かび上がってくる。

 ここで一息。

 ではなぜ正常でも、鬱になる人とならない人があるのか。ここを言えないと、「弱いから鬱になる」という偏見は破れない。

 泉谷さんの説から敷衍すれば、「頭」専制支配をよしとするよう育ってきたから、とも言えるし、何か大きなきっかけとなる出来事(事故や災害)に遭って心の声を抑圧したから、とも言えるし、世の中(の価値観)に過剰に適応しようとしているから、とも言える。

 そうなってくると、今の世の中であってみれば、「そうなるのはお前の責任」と個人に責任を帰せられるようであって、「お前の責任」ということは、ちょっと言葉を付け足せば「弱いお前の責任」となるのだと思う。がしかし、なぜ「お前の責任」と「弱い」が結びつくのか。

 「お前の責任」言葉を換えれば「自己責任」という言葉が出てきたのは、もう10年以上も前になる。なんでそんなことが分かるのかと言えば、「自己責任」という言葉がメディアをにぎわしていた頃、タイミングよく出た本が、桜井哲夫さんの「『自己責任』とは何か」(講談社現代新書)と私は記憶していて、その本が出たのが1998年です。あっ、この本も講談社現代新書だ。

 で、「自己責任」という言葉は、従来なら国家や会社の責任に帰せられていたことを、個人に移し替えるために出てきた言葉だと思うんですね。たとえて言うなら、会社が人材を育てられくなったとき、管理職の責任を問うのではなくて、「いまの若いやつはぼろい」と若手社員の責任にするわけです。こういう事態、横からみれば、管理職が人を育てる力が落ちているだけなのですが、会社の中ではそれで通用するわけです。というか、それで通用する会社は傾いていく気がしますが。

 ま、何が言いたいのか言えば、「自己責任」という言葉は、力が強い側が弱い側を排除するために発明した言葉ではないのだろうか、という疑問です。

 さっき例に挙げた会社で考えてみると、若手社員が思うように育たない、そういう事態が生じた場合に、まず管理職の側の育て方を問うのではなく、いままではこのやり方で育ったのになんで育たないんだ、若者はぼろいんじゃないのか、と若手の側に責任を押し付けることですね。でも若手というものは、その会社の中では、仕事をする力が足りないのは当たり前。もし、入ってすぐに、管理職の思い通りに働くような若手ばかりになれば、管理職なんていらない。実はそのことには気付かない管理職がぼろいのにもかかわらず。で、「若手がぼろい」と若手を排除することは、これすなわち、会社の序列の中で「強い」ものが「弱い」ものを排除するということ。で、その理由が「若手がぼろいから」というのは、会社がおかしくなっているのではないだろうか、と会社のあり方を見直すことなく、若手の自己責任にしている。

 だから「自己責任」と「弱者排除」はセットになっているのではないだろうか、ということ。

 そこで、「SIGHT」のサブタイトルをみると「弱いんじゃない、まともなんだ」とある。そこで言いたいことは「弱い」というレッテルを貼ることは強者(多数派、同調圧力をかける側)のやり方で、その「弱い」というレッテルを鬱病者が持ってしまうということはそれだけ強者の考えを内面化しているということで、そういうのは止めませんか、というメッセージでしょう。

 で、もう一つ。「弱い」という言葉には「自己責任」という言葉がまとわりつくようになっていると思うのですが、それとは関係なく、「弱い」という言葉自体が負の価値を帯びていると広く考えられているのではないか。

 そうだとすると、「強い」は正の価値、「弱い」は負の価値を帯びているということで、そのような考え方は、◯か×か、正しいのか誤りなのか、の二元論だと思う。

 だからサブタイトルのメッセージは、「弱い」という言葉をいまの世の中の価値観で受け入れてしまったら、鬱病になったこと自体をあなたは自分で自分の責任だと考えるようになるし、それは弱った自分を余計に責めることになるから止めませんか、鬱になるというのは「まとも」ですよ、と言いたいのだと思う。

 ここで一息。

 泉谷さんは患者との対話で、患者の認識が根本から変わり、人間が生まれ変わった姿をたくさん見てきたそうです。

 とすれば、結論としては、必要なのは対話だと言えそうです。
 「じゃあこれからは対話を大事にしましょう」と言うだけでは、スローガンになるだけですが。

2011年5月15日 (日)

来月号のお楽しみ

 「圧倒的な現実に、文学はどう対峙するのか」というタイトルの、作家の高橋源一郎さんと平川克美さんの対談を聞いていると、この対談はインターネット上の「ラジオデイズ」で売られている音声コンテンツなのだけれど、ラジオデイズ・プロデューサーの平川さんが、東日本大震災を受けて4月5日に行われた「いま、日本に何が起きているのか?」が、ゴールンウイーク開けにも、朝日新聞出版から出版されると話していた。

 「いま、日本に何が起きているのか?」は、内田樹さんと中沢新一さんと平川克美さんの鼎談なのだけれど、朝日新聞出版もすいぶんと仕事を急ぐなあ、と思う。鼎談の内容を本にするだけといっても、テープ起こしをして、削る部分と生かす部分を仕分けて原稿にして、鼎談者の3人がそれぞれ校閲をして、なおかつ編集者が編注を入れて、表紙と本をデザインをして、という作業を考えると、1か月でできるものなのだろうか、と素朴に感じる。
 もし朝日新書に入れるのであれば、本のデザインの部分は省けるかもしれないが、それでもけっこう時間がかかるのではないだろうか。担当編集者が一人で、この仕事だけをかかえているのなら、また別なのだろうけれど。

 朝日新聞出版は、朝日新聞社の出版部門を別会社化させたものだけど、本社からの出向と、新会社で新たに雇った労働者の労働条件は、同じなのだろうか、違うのだろうか。設立当初は所得格差の大きさが問題になった記憶がある。

 ところで中沢新一さんは鼎談の中で、「日本にも「緑の党」のようなものを作りたい」趣旨の発言をしており、以降、わたしは新聞をときたまチェックするが、まだ党設立のニュースは出ていない。が、文芸誌の広告で中沢さんの名前をみつけた。「すばる」6月号(集英社)に「日本の大転換」という論文を寄せている。

 「すばる」の発売日だと思う5月9日の夕方、ジュンク堂書店松山店にいくと、文芸誌のうち「すばる」だけが売り切れていた。宮脇書店に電話で問い合わせると、あった。ジュンク堂を時々チェックするが、「すばる」の補充はないようだ。補充しても売り切れてるだけかもしれないが。

 では中沢さんは、どのような大転換を描いているのか。それは分からなかった。というのは、6月号に載ったのは、論文の1章から5章のうちの3章までだったから。来月号に載るのであろう部分の目次は、4章が「リムランド文明の危機」、5章が「大転換へ」だ。

 わたしなりに大雑把に受け取った中沢さんの立論は、原子力と、超越的な神をもつ一神教と、資本主義の同形性を指摘し、その危なさを指摘するもの。ではどういう方向への転換が考えられるのか、それは来月のお楽しみ、ということです。

伊藤比呂美さん「とげ抜き」が文庫に

 ジュンク堂書店松山店2階の文庫コーナーで、新刊チェックをしていると、講談社文庫の新刊に、詩人の伊藤比呂美さんの「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」が入っていた。私は、伊藤比呂美先生に失礼な考えを抱いていたことに気付き、申し訳なく思ったのだった。

 というのは、当の「とげ抜き」を数ヶ月前にどうしても所有したくなったのだけれど、そのとき、この本は紫式部文学賞と萩原朔太郎賞をダブル受賞していて、萩原朔太郎賞ということは詩集なわけで、詩集が文庫に入るわけがない、と断定し、単行本を買ったからなのだった。

 「とげ抜き」が詩集であるかどうかは、選考会でも議論があったことを作家の高橋源一郎さんが「さよなら、ニッポン」(文藝春秋、2011)に書いている。
 高橋さんが「とげ抜き」について書いた部分、「さよなら、ニッポン」の15章「詩か? 小説か? それが問題だ」と16章「『月経』(のようなもの)をこそ書きたい」、ページで表すと347ページから394ページまで、全文引用したいのだけど、一部だけ引用します。

(引用はじめ)
 

 詩か?
 小説か?
 それが問題なのだった。
 選考会は、そのことをめぐって白熱した。
 一方には、入沢康夫さんがいらした。入沢さんは、詩のことばと小説(散文)のことばの、本質的なちがいについて、誰よりも深く思索してきた詩人だ。ぼくも、とても深く、尊敬している。
 入沢さんは「見た目が9割」の詩とは無縁なところで、厳しく、ことばを観察されてきた。そして、入沢さんは、他のどんな詩人よりも、詩と小説(散文)、それぞれの領域を広く考えてきた。ことばの表面ではなく、その、本質と思われるところへ降り立って、それがなになのかを判断されてきたのである。
 耳は遠くなられたし、目は優しい。しゃべる口調も穏やかだ。だが、ことばへの眼差しは、峻厳をきわめる。
 「ぼくには、詩だとは思えないんです」と入沢さん。
 「ぼくは、詩だと思います」とぼく。
 議論は果てしなく続くかと思われた。だが、時間がない。結局は、明確な結論を出すことなく、選考会は終わった。ぼくは、宿題を出されたような気がすっとしていたのである。(363ページ)

(引用終わり)

 この部分を書き写すために久しぶりに、といっても2ヶ月ほどしか経ってないけど、高橋さんの「さよなら、ニッポン」を手に取ると、分厚いなあ、と思い、表紙から漫画家の岡崎京子さんを思い浮かべる。この本を買った時、表紙をみて思ったのは、「青いなあ」ということだけだった。そこに描かれている絵にまで神経が届かなかった。

 買ってからしばらくたち、さて読もうか、と思い立ち、表紙を見ると、表紙全体は帯にかくれて見えない部分があって、帯からちょうど上に、女の子の上半身と男の子の顔が見え、向こうにビル街がみえる夜の絵なのだけど、そのときようやく、これはどこかで見たことある、と気付いたのだった。タイトルは思い出せないが、一番好きだった岡崎京子さんの漫画。そうそう、「リバーズ・エッジ」。

 主人公の女の子は拒食症っぽくて、たまたま草むらでみつけた死体をみてリアルを感じる、というような内容だったような。テーマソングは北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」だったような記憶がある。

 北原ミレイという名前をそのとき初めて知って、でCDを買って、聞いて、いまは記憶の彼方にしまいこまれた。

 「音楽というものはねえ、心に余裕がないと聞けないものだよ」としみじみ話してくれた恩人がいて、それはほんとうにそうなんだなあと思ったのは、それまでに親しんだ音楽も聴く気がおこらなくなるのだった。聴く気が起こらないと書くと、聴く気というものが、気の中には存在しているような意味を含んでしまうが、そのように存在しているわけではなくて、音楽というものがこの世の中にあるということに気が回らない。街中でも店の中でもどこでも音楽は流れているのだけれど、耳に入らない。所有しているCDは、ほったらかしにされたまま、部屋の一部を占める何かの塊として、目に入らなくなるのだった。

 そうなってくると音楽というものからどんどん遠ざかっていく。音楽の力によっぽど訴えるものがないと、届かない。かといってコンサートに足を運ぶことは思いつかないから、音楽と再会する機会は、たまたま耳にした音楽が何かを訴えかけてきた時になる。それっきり再会の機会になかなか恵まれない人もいれば、短期間のうちに再会する人もいるのだろうけれど、数年ぶりに再会したのはコンビニでだった。コンビニに行くといつもかかっている音楽があり、それが心に届く何かを持っていた。もう3年前になるのか、宇多田ヒカルさんの「HEART STATION」だった。

 いま聴き直すと、そんなには響いてこないが、そのときにはメロディーと歌詞、両方ともが届いてきた。宇多田さんはディスコミュニケーションの中のコミュニケーションの可能性を歌っていたのだろうか。宇多田さんが進化していると思えるのは、昨年の活動休止前に発表したシングルコレクションに入っていた新曲のうちの1曲に、心理的に何かを抑圧するときの心の動きを、うまい比喩で歌詞にしているのがあり、曲はキャッチーで、情熱的でもある。自分の心の動きをみつめて書いたのだとすれば、その認識力は大したもので、それを比喩的に表現できるのも、実際すばらしい。そしてそれは私には「HEART STATION」よりも、認識を深めているように思えたのだった。

 歌詞という言葉には詩という文字こそ入っていないが、実際には詩といいうるものもあるのであり、たとえば吉本隆明さんは「詩の力」(新潮文庫、2009)で、宇多田ヒカルさんを取り上げているが、伊藤比呂美さんは取り上げていない。

 そして「詩の力」で取り上げられた現代詩人の名前を眺めていて、作品が文庫に入っているのは、谷川俊太郎さんと吉増剛造さんと俵万智さんと寺山修司さんと茨木のり子さんくらいのものではないだろうか。このうち、現代詩人で、アンソロジーではなく単行本の詩集が文庫に入っているのは、谷川俊太郎さんと茨木のり子さんになる。

 つまり現代詩人の詩集は、なかなか文庫には入らない。
 伊藤比呂美さんの場合は、「青梅」が1988年に集英社文庫に入っているが、いまは絶版。詩集じゃなければ、伊藤さんの本は、昨年から中公文庫に2冊、光文社文庫に1冊入った。
 伊藤さんの本が文庫化されている動きは知っていたけれど、そして「とげ抜き」の原著は2007年刊行だから、もし文庫に入るとすればそろそろ入ってもおかしくはないとは考えたけれど、詩集が文庫に入ることはないだろう、と思っていたのです。

 でもこれは詩集なのだろうか。

2011年5月14日 (土)

問題を掘り下げない

 テレビを見ることのある主婦がワイドショーについて「原発推進派の学者が出てきたら、いつも、原発がなくなれば電気料金が上がる、と脅して(そのコーナーか議論か)は終わりになる」と教えてくれた。そして「ドイツは脱原発の方向に進むけど、街頭インタビューに答えているドイツの市民は、安全なら電気料金が少々高くなってもいい、と答えててすごい」と話していた。

 それを聞いて問い返した。「じゃあ、日本の市民は、脱原発に進めば電気料金が高くなるのなら、どうしたいと答えてるの?」と。

 すると、そのような街頭インタビューは見たことないのだそうである。

 テレビは何かの用事をしながら見るのだろうから、見逃しただけかもしれない。
 
 しかし本当にないのだとすれば、テレビ局がワイドショーをつくるときに、よく使う手法である街頭インタビューをしないのは奇妙だと感じる。それをさせない何かがあるのであろうか。自粛か。

効率

 ビンラディン氏暗殺について、アメリカは当初から身柄拘束をするつもりはなく、殺すのが目的だった、という共同通信の配信記事があった。

(引用はじめ)

【イスラマバード共同】国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディン容疑者襲撃作戦を実行した米海軍特殊部隊が受けていた命令は、「身柄拘束」ではなく「殺害」だったことが6日、分かった。作戦の全容を知る米政府筋が共同通信に明らかにした。
 米政府はこれまで、ビンラディン容疑者が抵抗したために殺害したと説明してきたが、当初から殺害目的の作戦だったことになり、国際法上の適法性などにあらためて疑問の声が上がりそうだ。
 同筋は、殺害命令が下された背景について「裁判にかければ数百万ドル(数億円)かかる」と財政上の問題を指摘した上で、「主張が世界に知れ渡るような裁判を望まない」と述べた。

(引用おわり)

 この記事を読み、「効率ここに極まれり」と思った。
 これが言論の自由を保障した民主主義国のいうことだろうか、と疑問がわき、他国を民主化させるために戦争を仕掛ける国なのだから、過去の行動からみれば理解はできるが、しかしそれにしても、日本的だと言われる「本音と建前」の乖離がひどい。「地球よりも重い」ひとの命に関わっていることだから。

 ひとの命といっても、ビンラディン氏はアメリカからみれば敵であり悪であろうが。

 がしかし、敵であり悪であるものを殺す、すなわち消す、という発想は、宗教の面から考えれば理解できないのだけれど、効率の面から考えたら理解できる。「悪いものは排除する」という考えは見慣れたものであり、今回はたまたま「排除する」ということが「地球上から一人物を排除する」ということだった。

 もひとつ驚きなのは、アメリカの首脳陣が、ビンラディン氏を暗殺するアメリカ軍の作戦の生中継を遠隔画像で見ている写真だ。その写真には通信社のクレジットがあり、ということはつまり、アメリカの首脳陣は、通信社のカメラマンを、ひとを殺す生中継を見ている部屋に招き入れているということである。

 そのようにすることは、一方からみれば情報公開と評価されるのかもしれない。

 しかし私には写真から、国家の極秘プロジェクトを公開することができるのだという権力者の尊大さと奢りが透けて見え、その尊大さから派生するのであろう余裕とリラックス感を感じ取り、そのような余裕が照らし出してしまう、ビンラディン氏の命を命と思わないような、ひとの命への尊厳を欠いた軽々しさをもまた感じざるを得ない。

 写真に映った面々の中の一人の目、瞳孔が大きく開いているようにみえ、その瞳孔から私は、この人はひとを殺す場面のスリルとサスペンスを感じているのだろう、これはハリウッド映画ではないし、本当の出来事だから、興奮もいや増すのだろうか、と想像する。生中継というものが、映っているのが何であろうと人を惹き付ける何かを秘めているのであってみれば、なおさら。
 
 遠く離れた国で、自分の命令によって部下が人を殺す場面を生中継で画像で見、その部屋に通信社の人間を入れる。殺人の命令をした人物と、殺人を実行する人物は別人で、遠く離れた殺人現場を科学技術の進歩のおかげでまさに目の前で行われているように見ることができ、自分はこれだけの権力を持っていると、権力を監視するのが役目だとされている人物に見せる。

 客観的にみればグロテスクな絵図。

 しかしそれは写真だから、嘘が交じっている可能性を排除することはできない。が、もし本当に、ビンラディン氏暗殺の生中継を見ている部屋の写真だったとすれば、その写真は現代の権力の一面を切りとっている。

 同じような力の構図は、テロを命令していたビンラディン氏の側でもあっただろう。そこには権力を監視する役目とされている人物こそいなかったかもしれないが、テロの成否を安全な部屋で聞いているというのは、アメリカ側と同じような構図だ。ポジとネガ、というか、否定するものは否定されるものに規定される、というか。
 
 そして先ほど書いたように、それは「効率よく」の一つの行き着く果てである。
 私は言いたい。「何か忘れてませんか。遊びを」と。
 「遊びを」。
 
 アメリカ政府による今回のビンラディン氏暗殺の作戦名(か、ビンラディン氏そのものの暗号名)は「ジェロニモ」で、先住民の抗議に対し、意図的につけたものではないと釈明した、という報道をみると、アメリカ政府を動かしているのは、いまだに「アメリカ大陸を『発見』して東海岸から上陸し、先住民を騙して殺しながら、西に進んでいく」衝動なのか、と私は感じ、深く驚いた。
 「意図的でない」というのは、逆に言えば「それだけ身体深くに根ざしている」ということだろうから。


2011年5月 4日 (水)

パン工房ウッキー

 「5月3日から5日は(店を)休もうと思ってるんですよ」と、パン工房ウッキー(松山市山越)のレジのおじさんが2、3日前話していた。
 実際に休んだかどうかは分からない。
 高速道路無料化になってから、ゴールデンウイークの客入りはよくないという。

 それがうなづけるのは、ウッキーにくる道すがらを思い出したら分かった。環状線がやけに混んでいて、なんでこんなに渋滞してるんだと思ったら、高速道路インター入り口へのアクセス道である国道33号を過ぎると、車の数はグンと減るのだった。
 
 ウッキーにきたのは、南海放送の「もぎたてテレビ」に紹介されたのをちらっと見かけたから、それによって味が落ちてないかどうかを確かめるためだった。
 放送があってから一度きたのだけれど、昼過ぎだったにもかかわらず、というか、昼過ぎだったから、というべきか、ほとんど売り切れいて、何も買わずに帰ったのだった。

 フランスパンがほしいと思ったが、まだ焼き上がってなくて諦める。
 何年か前に、雑誌「Komachi愛媛」がパン屋特集をしたことがあったらしく、そのときの1位に選ばれたのが、ゆで卵の入ったカレーパンで、だからというわけではないが、それを買う。
 そしてクロワッサン。
 食パンも。

 パン屋の中で、天然酵母を売りにするところは多いけれど、ウッキーは自家製天然酵母。
 こだわっている感じがする。

 食べてみると、おいしい。
 味は落ちてなかった。
 よかった。

 ウッキーのパンは、パン生地自体が少しもっちりしている感じがあり、甘みがある。だから基本的にはどのパンもおいしい。

 中でもおいしいのは、米粉食パン。
 米粉パンというのは、ここ数年のはやりだと思うのだが、いろいろ食べたなかで、ウッキーのがわたしは一番おいしかった。
 いまでもそうなのか知らないが、米粉食パンは日替わり食パンのうちの一つで、土曜にしかないところが残念といえば残念で、希少価値があるといえばあるのだが。

 そしてフランスパン。
 これもいい。
 焼き上がったのを買った当日は、そのまま食べてもおいしい。翌日からはトーストすると、小麦粉の香りが漂い、なんともいえない甘みもあって、いい。
 ほかと比べても群を抜いている。
 ウッキーと比類しうるのは、銀天街にあるブーランジェリー・エコールくらいですね。

 だから、食パンとフランスパンがおいしいということは、サンドイッチもいける、ということになる。生ハムとチーズのルヴァンサンドなんて最高です。

 で、わたしの感じでは、ウッキーのパンは生地自体に甘みがあるから、菓子パンになってくると、甘みが過ぎる。で、まあ、残念なのは、ウッキーの品揃えは菓子パンが多いということ。置いてるパンのメニューだけみると、まさしく街のパン屋さん、という感じなんですね。新しく商品化するのは決まって菓子パンです。
 自家製天然酵母を使ってこだわっているのに、そのこだわりを生かしていない感じがするというか、まあ、だから嫌みはないんだけど、でももうちょっと都会的センスみたいなものを取り入れてもいいのではないか、と。
 値段の問題なのかなあ。
 ハード系パンって大体、菓子パンよりひと周りかふた周り大きくって、値段もそうだから。そうなると街のパン屋さん的色彩が薄くなってしまうからかなあ。
 
 わたしは夢想する。
 もしウッキーがハード系パン主体になれば、いやそこまででなくとも、ハード系パンと菓子パンがせめて半々くらいの割合になれば、足繁く通うようになるのに。そして、焼きたてのパンのいい香りの中で、きょうはどれにしようかなと迷う喜び。

 けどそうなると、店のコンセプトというものがぶれますね。
 いまのウッキーの店舗面積からすれば、ハード系パンか菓子パンか、どちらかにならざるを得ないと思う。そして街のパン屋さんとして定着しているのだから、わざわざ裏切る必然性はない。
 「街のパン屋さん」のフランスパンが、こだわりのパン屋よりおいしいというのも、渋い。

2011年4月28日 (木)

不便になったコンビニ

 封書を送る用事があり、小腹が空いていたので、軽食をしてから宛名書きをしてポスト投函するために、国道33号沿いにある、カフェ「K’s Cafe」を併設している「サークルK」に行った。
 サークルKのレジに封書を出し、いくらの切手が必要か量ってください、と頼むと、「量りを置くのを辞めました」の返事。目の前のポストを指差し、郵便は扱ってるんでしょと尋ねると、「はい」。
「切手も売ってるんでしょ?」
「はい」
 店員はしかしきっぱりと「封筒の重さを量って、切手を売るのは辞めました」と言うのだった。
 なるほど、微妙に不便ですね、コンビニなのに、と心の中で不満をひとりごち、近くの郵便局へ向かった。
 ならあれですかね、サークルKで封書を送りたいひとは、自分の家で重さを量って、ネットで切手の金額を調べ、それからコンビニに向かえばいい、ということですね。コンビニという便利なものを使うために、ずいぶんと作業を強いられる、まず量りを買わないといけないし。
 というか、それならはじめから郵便局に行くのが正解ですね。

 それはいいとして、サークルKで何かがあったのだろうか。
 封筒に貼る切手は、封筒が定形か定形外か、という区分の上に、重さが関係してくる。
 それで間違いが重なったのだろうか。
 もしそうだとすれば、間違いがあったから取り扱いを止める、というのは、面倒なものは排除するということで、それはキッパリスッキリしているようで、実はなかなか恐ろしい考えにつながりもする。扱いが面倒な社員は馘にしてしまえ、というのと同形の論理ですからね。
 そしてまたそれは、失敗を生かせないということで、人間は学ぶものであるという事実を無視している貧しい考えだ。

 といっても理由を聞いてないから本当のところは分からないのだけど。
 (法律関係かもしれないし)

 量りを置いてないのが、たまたまその日を含めた数日の間だけだった可能性もないことではないし。

«売れている総合雑誌