「正常だから鬱になる 弱いんじゃない、まともなんだ」という特集を組んだ季刊総合誌「SIGHT」2011春号(rockin’on)が気になっていたので、読んだ。「SIGHT」春号は、ジュンク堂書店松山店の総合雑誌コーナーではしばらくの間、通常の棚ではなく、フェア用というか特集用の棚、要はいつもより目立つところに平積みにされていたのだった。それが通常の棚に戻されたのは、「文藝春秋」6月号が大量に場所を占めたためなのだった。
「正常だから鬱になる」というのが本当だと言うためには、「鬱にならなかったら正常ではない」のが本当でなければならない。が、すぐに分かるように、「鬱にならなかったら正常ではない」とはいえない。
ということは、「正常だから鬱になる」というのはハッタリだ。ならばなぜそれをメインタイトルにしたのか。
サブタイトルは「弱いんじゃない、まともなんだ」。こういうメッセージを出すということは、「鬱になるのは弱い人間で、(少し)おかしなところがある」と世の中に広く思われている、と、編集部が考えているからだろう。
では、実際のところどうなのか。
そこらへんを気にかけて、読んでみた。
分かったのは、メインタイトルはおそらく、特集の巻頭インタビューに答えている精神科医の泉谷閑示さんの発言から取ったのだろうということ。
泉谷さんのプロフィールをみると、講談社現代新書から「『普通がいい』という病」を2006年に出していて、本屋でぱらぱらとめくると、出た当時に私は読んだ本なのだった。でも結果からいうと読んでないのだった。
読めども読めず。
と言おうか、
読めども身に付かず。
と言おうか、
悪銭身に付かず。
と言おうか、
良書、身に付かず。
と言おうか、
読書百遍、意自ずから通ず。
が本当なら、一遍しか読んでないので、意が通じなかったのか。
とにかく。
泉谷さんは「SIGHT」のインタビューでこう言っている。
よくご家族が「うちの子がひきこもりになって」とか、「会社に行けなくなったんです」といってお子さんーもう20代とか30代の方だったりしますけどーを連れていらっしゃる。そこでその方のお話をじっくりきいていくと、どうも病んでいるのはご家族のほうで。周囲に対して一番真っ当に拒否反応なりレジスタンスの運動を起こしているのがご本人なんですよ。それは会社でもあり得ることで、たとえば上司が、部下をなんとかしてほしいと連れてくるんですが、よく話をきいてみると、「あなたの会社、かなりおかしいことになってますね」、みたいな(笑)。私からしてみれば、そうして行き詰まっている方たちに、素直に親近感を覚えますし、ほっとするんです。「あ、この人はまともだ」という感じがするんですよね。(18~19ページ)
つまり、「正常だから鬱になる」とは、泉谷さんが臨床から得た実感なのだった。
ではなぜ鬱になるのか。
泉谷さんの仮説はこうである。
「頭」は理性の場であって、英語の助動詞で言うところのshouldとかmust系列の「〜すべき」「〜してはならない」といった物言いをします。そして「頭」はなんでもコントロールしたがるという特徴があります。学校や会社、社会での規範というのはこの「頭」が支配しているものなんですね。一方「心」は、want toやlikeの系列で「〜したい/〜したくない」「好き/嫌い」といった直観や情動を備えている場所です。本来、生き物として中心にあるべきなのは「心」のほうなのですが、人間は「頭」の部分ばかりがどんどん発達してしまい、生き物としてのバランスを失っている、というふうに考えられるわけです。
たとえて言うなら「頭」支配の独裁国家が、「心」を奴隷のように扱う状態が続く。そうするとあるとき「心」がストライキを決行し、反政府運動を起こすという。もはや「心」が「頭」の強権的な指令には一切応じないという、これがうつの状態なんです。(20ページ)
つまり、そうなった理由はどうあれ、「頭」による「心」の専制支配が、うつを生み出すと。そして「心」と「体」は一体のものだから、症状は体に表れることもある。体に表れる場合、現れる場所は、喉だったり胃だったり、ひとさまざまであろうが、表れた場所は、心=体のメッセージを読み解くための重要な手がかりになる、ということですね。
で、「頭」が理性の場であってみれば、治療は言葉によるものとなる、すなわち泉谷さんの治療は、対話になるわけなのです。
なぜか。
「頭」の中が、「〜すべき」「〜してはならない」で充満してるからでしょう。充満している命題が妥当なものなのか吟味するには、対話が一番です。ソクラテスみたいですね。
そして鬱になる人が増えているのであれば、学校や会社、社会には対話がない、ということになる。そこに対話があるのなら、鬱にはならなかったのだろうから。そしてもう一つ。同じことの言い換えだけれども、学校や会社、社会のあり方が変化する時期にきているのに、対応できてない、という問題が浮かび上がってくる。
ここで一息。
ではなぜ正常でも、鬱になる人とならない人があるのか。ここを言えないと、「弱いから鬱になる」という偏見は破れない。
泉谷さんの説から敷衍すれば、「頭」専制支配をよしとするよう育ってきたから、とも言えるし、何か大きなきっかけとなる出来事(事故や災害)に遭って心の声を抑圧したから、とも言えるし、世の中(の価値観)に過剰に適応しようとしているから、とも言える。
そうなってくると、今の世の中であってみれば、「そうなるのはお前の責任」と個人に責任を帰せられるようであって、「お前の責任」ということは、ちょっと言葉を付け足せば「弱いお前の責任」となるのだと思う。がしかし、なぜ「お前の責任」と「弱い」が結びつくのか。
「お前の責任」言葉を換えれば「自己責任」という言葉が出てきたのは、もう10年以上も前になる。なんでそんなことが分かるのかと言えば、「自己責任」という言葉がメディアをにぎわしていた頃、タイミングよく出た本が、桜井哲夫さんの「『自己責任』とは何か」(講談社現代新書)と私は記憶していて、その本が出たのが1998年です。あっ、この本も講談社現代新書だ。
で、「自己責任」という言葉は、従来なら国家や会社の責任に帰せられていたことを、個人に移し替えるために出てきた言葉だと思うんですね。たとえて言うなら、会社が人材を育てられくなったとき、管理職の責任を問うのではなくて、「いまの若いやつはぼろい」と若手社員の責任にするわけです。こういう事態、横からみれば、管理職が人を育てる力が落ちているだけなのですが、会社の中ではそれで通用するわけです。というか、それで通用する会社は傾いていく気がしますが。
ま、何が言いたいのか言えば、「自己責任」という言葉は、力が強い側が弱い側を排除するために発明した言葉ではないのだろうか、という疑問です。
さっき例に挙げた会社で考えてみると、若手社員が思うように育たない、そういう事態が生じた場合に、まず管理職の側の育て方を問うのではなく、いままではこのやり方で育ったのになんで育たないんだ、若者はぼろいんじゃないのか、と若手の側に責任を押し付けることですね。でも若手というものは、その会社の中では、仕事をする力が足りないのは当たり前。もし、入ってすぐに、管理職の思い通りに働くような若手ばかりになれば、管理職なんていらない。実はそのことには気付かない管理職がぼろいのにもかかわらず。で、「若手がぼろい」と若手を排除することは、これすなわち、会社の序列の中で「強い」ものが「弱い」ものを排除するということ。で、その理由が「若手がぼろいから」というのは、会社がおかしくなっているのではないだろうか、と会社のあり方を見直すことなく、若手の自己責任にしている。
だから「自己責任」と「弱者排除」はセットになっているのではないだろうか、ということ。
そこで、「SIGHT」のサブタイトルをみると「弱いんじゃない、まともなんだ」とある。そこで言いたいことは「弱い」というレッテルを貼ることは強者(多数派、同調圧力をかける側)のやり方で、その「弱い」というレッテルを鬱病者が持ってしまうということはそれだけ強者の考えを内面化しているということで、そういうのは止めませんか、というメッセージでしょう。
で、もう一つ。「弱い」という言葉には「自己責任」という言葉がまとわりつくようになっていると思うのですが、それとは関係なく、「弱い」という言葉自体が負の価値を帯びていると広く考えられているのではないか。
そうだとすると、「強い」は正の価値、「弱い」は負の価値を帯びているということで、そのような考え方は、◯か×か、正しいのか誤りなのか、の二元論だと思う。
だからサブタイトルのメッセージは、「弱い」という言葉をいまの世の中の価値観で受け入れてしまったら、鬱病になったこと自体をあなたは自分で自分の責任だと考えるようになるし、それは弱った自分を余計に責めることになるから止めませんか、鬱になるというのは「まとも」ですよ、と言いたいのだと思う。
ここで一息。
泉谷さんは患者との対話で、患者の認識が根本から変わり、人間が生まれ変わった姿をたくさん見てきたそうです。
とすれば、結論としては、必要なのは対話だと言えそうです。
「じゃあこれからは対話を大事にしましょう」と言うだけでは、スローガンになるだけですが。
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